只管打坐~ただひたすらに坐る、ということ~

仏教伝道協会主催の【仏教初心者講座「一から学ぶ日本の仏教 曹洞宗・道元」】に行ってきました。

4月から毎月1回、各宗派のことを聴けるというこの会。
わたしはたまたま両親ともに曹洞宗という血筋に生まれたので、これはやっぱり曹洞宗を聴こう♪と3月早々に申込み。(長かったー忘れそうなくらい長かった。笑)

講師はぶっちゃけ寺にも出演中の千葉公慈 師

講師は、千葉公慈 師。
ぶっちゃけ寺でもいつもにこやかにお話されている姿を拝見していて、お会いできること自体が楽しみでもありました。

はじめは、曹洞宗の開祖、道元禅師のヒストリー。
著作権諸々の関係で。。。と、

千葉住職手書きのイラスト(笑)で、お話をしてくださって、あっという間の1時間。

その後、法話へと続きます。

幸せになるために生きるんじゃなくて、生きるために生きる。

法話は【只管打坐(しかんたざ)】という言葉について。
意味は、ただひたすらに坐る、ということ。
悟りを求めるために坐るのではなくて、ただひたすらに坐る。。。
んーちょっと難しい??って思いましたが、千葉住職が修行中のお話をしてくださいました。

住職が修行中、日に数回同じ場所を掃除しているときに『これほどキレイなのに何でまた同じところを掃除するんだろう』とシンプルに疑問を持ったそうです。
そしてそう思ったときこそが、気づき・閃き・悟り、の瞬間だったりするんでしょうね。
『キレイにするために掃除するんじゃない、掃除するために掃除するんだ』
と、気づかれたそうです。

字面で読むと、ん??となってしまいそうですが、この法話を聴いたときにハッと思い出したことがありました。
わたしの昔のブログ記事なのですが。

コンタクトを外して掃除してみた
コンタクトを外して掃除してみたら
掃除って、汚れてるところをキレイにするのが目的だったっけ??
と。
コンタクトをしていたって
自室の畳も、お手洗いも、コロコロとウェットシートもって無心に拭きあげていると
余計なこと何も考えなくなってくるんですよね。
そっか、汚いから掃除をするんじゃなかった!
そんな、ごくごく当たり前のことにハッと気づいて。
そこからまた、日々の感謝というか
こうしてゆっくりと過ごすことができる環境に感謝が溢れてきました。
え?当たり前じゃん!って思う方も多いかと思うのですが
わたしは
『「掃除する」という当たり前』がいつの間にか
『「汚れがないようにする」という当たり前』になっていたんです。
物に対してだけではなくて、者に対してもそうなのかもしれないですね。
いつの間にか
「誰かからの見映えをよくするために」
「わたしが極力不快を感じないために」

という角度から見るようになってしまっていること、案外あるように思います。

この日、わたしの掃除に対する思いが変わった日なのですが、掃除に限らずひとつひとつの行動がシンプルに丁寧になったように感じています。ひょっとしたら、同じような感覚なのかなーとちょっと嬉しくもなったりして♪

その後、千葉住職からの法話は続いて
幸せになるために生きるんじゃなくて、生きるために生きる。
目的と手段とそのプロセスが全て一貫していてバラバラになっていないこと。

ともお話くださいました。それが本来の在り方なのだな、と感じ入るひととき。

健康のハナシをするときも、あたまの使い方のハナシをするときも、
「目的と手段が入れ替わってしまうと、どこに向かったらいいか分からなくなっちゃうんだよ」
ということを話していますが、昨日の法話でその大切さを改めて感じることができました。

ほんの1時間ちょっとの時間だったけれど、本当に来てよかった!!と久々に思えた場所。
仏教だからどうのこうのではなくて、生きる者としてシェアしたいことがたくさんあった時間。
血筋に感謝☆ですねぇ。